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官休庵 [茶席]

武者小路千家 官休庵(むしゃのこうじせんんけ かんきゅうあん)

一翁宗守(元伯宗旦(利休の孫)の次男)が高松藩の官を辞め余生を送った官休庵
(1667年作)。
官休庵の名は仕官を休むということから由来。
武者小路千家の代名詞。
安永、天明、嘉永と度重なる火災で失われ、1926年に再興。
建てられた当初の形との合否は今だ不明。

西の主やに添えられた形となっている。
外観
南正面、入母屋(妻)庇付き。
言われでは、瓦部分も当初は、全て杮葺。

武者小路家官休庵1.jpeg


内観
一畳台目+半板。
客座一畳と点前の台目畳の間に幅五寸一分の板を入れてある。
茶道口から入ると半畳分の板畳が踏み込みとなり、炉は向切り、台目の下座床がつき、杉柾柱(すぎまさばしら)を八角になぐって磨いた床柱に、床框には桧磨丸太(ひのきみがきまるた)を使用。

不自由な老人などの為に水屋道庫(二枚の杉ノネ板の戸)が付いている。

床の向かい側に下地窓(したじまど)、躙口の上に連子窓(れんじまど)、点前座には風炉先窓(ふろさきまど)

天井は白竹竿緑(しらたけさおぶち)の蒲天井。
床脇が化粧屋根裏。
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大虚庵 [茶席]

光悦寺大虚庵(こうえつじ たいきょあん)

光悦寺は日蓮宗の寺院。
山号は大虚山。親師法縁

江戸時代の芸術家である本阿弥光悦に元和元年(1615年)に徳川家康がこの地を与えた。
この地に光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住み芸術の集落となった。
光悦の死後に屋敷は寺となり、境内には光悦の墓碑がある。

大虚庵前の竹の垣根は光悦垣またはその姿から臥牛(ねうし)垣と呼ばれ徐々に高さの変る独特のものである。
この竹垣が内露地を覆っている。

現在ある大虚庵は大正4 年(1915 年)に新たに建てられたもの。
住居だったものを茶室として変えられている事から元来の復元ではない。

外観
切妻杮葺
妻側いっぱいに庇が付いている。
光悦寺大虚庵1.jpg


中央、右手の躙口は引き違いの横長。
上部に連子、下地窓が開いている。
更に左手には大下地窓。

もとは、ここは縁付きの三枚たて腰障子で貴人口となっていた。

内観
三畳台目がもとの形。
しかし、床の位置を変えて台目二畳が敷かれ、床脇畳も追加。
床は板床から畳床に変えられている。
現在は、平四畳と台目二畳の茶室。
炉は台目切り、中柱無し。
床脇の色紙窓と炉の部分は、昔のスタイルを維持。

床柱は、赤松皮付き。
野根板の平天と蒲の落ち天の天井構成。

小縁と貴人口が新たに追加。


大虚庵を含め三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室がある。

所在地 :京都府京都市北区鷹峯光悦町29



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不審庵 [茶席]

表千家 不審庵(おもてせんけ ふしんあん)

不審庵は、利休が大徳寺門前の屋敷に四畳半の茶室を造った。
ここに不審庵と掲げたのが最初だといわれる。
その後、千利休の自刃後、その子少庵が豊臣秀吉より千家再興を許され深三畳台目と二畳敷道安囲い両者に不審庵の額が掲げられていたと伝えられる。

更に、その後宗旦が床なしの一畳半を造る。
これを不審庵とした。
その子、江岑(こうしん)が平三畳台目を完成。
以後、固定。
しかし、明治38年(1905年)に焼失、大正2年(1913年)に再建。

外観
切妻杮葺屋根
前面の庇、西に流れた片屋根。

表千家 不審庵2.jpg


内部
三畳台目、点前が台目畳。
幅5寸1分(≒154ミリ)の板畳が付随。
躙口の正面に床、向かって右手に給仕口。

天井構成は、床側は蒲天。
躙口側が化粧屋根裏。
それとは直角方向に化粧屋根裏。
これらの天井構成の中央にほぼ真っ直ぐに中柱が立つ。

点前の背後に下地窓(採光を考慮)

炉は台目切。
茶道口には、釣襖を使用。

表千家 不審庵1jpg.jpg

利休の四畳半から現在の形になるまでの継承過程に注目。

所在地:京都市上京区小川寺


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