清漣亭 [茶席]
等持院清漣亭(とうじいん せいれんてい)
足利尊氏が、1341年(暦応4 年)に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その2年後の1343年、現在の京都市北区等持院北町に別院北等持寺を建立した。
尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称した。(足利氏の菩提寺)
その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になった。
現在の建物は文政元年(1818)に再建されたものが残っている。
清漣亭は北側の小高い丘の上にあり、義政公の好みと言われるが定かではない。
また「都林泉名勝図会(1799年)」の等持院絵図には、現在の場所に清漣亭は描かれているが現在のものとは相違する。
再建当時に手が加わったもの。
外観は、寄棟茅葺。
水屋をあいだにして西側に切妻造りのもう一つの四畳半茶室を持つ。
内部は、長四畳。
二方(東、西)を開放し小縁をカネ折につけている。
北東の一畳分に上段を設け、東と西に框を廻らしてある。
その西に踏み込み床。
床柱として、赤松皮付きの曲木をつけ、脇に竹を横に配し下部を吹き抜けに施され上部は下地窓。
台目構えに魅せている。
その裏側が台目畳の点前座となっている。
(一畳の上段付き二畳台目向切の形にあたる。)
炉は向切り、勝手付きに色紙窓。
上段の北側には、アーチ状の丸太を上方に入れた中敷居窓を付け、二枚障子を建てている。
(平書院の形式)
天井の構成は、上段の上が網代(あじろ)天井、上段の前は竿縁平天井、点前座と床の境に丸太を通し、それより西側が落天井。
躙口は無い。
材の選択や複雑な構成は賓が無い感じであるが貴人を重視した茶室である。
所在地 :京都府京都市北区等持院北町63
足利尊氏が、1341年(暦応4 年)に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その2年後の1343年、現在の京都市北区等持院北町に別院北等持寺を建立した。
尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称した。(足利氏の菩提寺)
その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になった。
現在の建物は文政元年(1818)に再建されたものが残っている。
清漣亭は北側の小高い丘の上にあり、義政公の好みと言われるが定かではない。
また「都林泉名勝図会(1799年)」の等持院絵図には、現在の場所に清漣亭は描かれているが現在のものとは相違する。
再建当時に手が加わったもの。
外観は、寄棟茅葺。
水屋をあいだにして西側に切妻造りのもう一つの四畳半茶室を持つ。
内部は、長四畳。
二方(東、西)を開放し小縁をカネ折につけている。
北東の一畳分に上段を設け、東と西に框を廻らしてある。
その西に踏み込み床。
床柱として、赤松皮付きの曲木をつけ、脇に竹を横に配し下部を吹き抜けに施され上部は下地窓。
台目構えに魅せている。
その裏側が台目畳の点前座となっている。
(一畳の上段付き二畳台目向切の形にあたる。)
炉は向切り、勝手付きに色紙窓。
上段の北側には、アーチ状の丸太を上方に入れた中敷居窓を付け、二枚障子を建てている。
(平書院の形式)
天井の構成は、上段の上が網代(あじろ)天井、上段の前は竿縁平天井、点前座と床の境に丸太を通し、それより西側が落天井。
躙口は無い。
材の選択や複雑な構成は賓が無い感じであるが貴人を重視した茶室である。
所在地 :京都府京都市北区等持院北町63
コメント 0