残月亭 [茶席]

表千家 残月亭(おもてせんけ ざんげつてい)

利休の聚楽屋敷から千家に移された書院座敷。
実際は、小庵が手を加え小規模にし、建てかえたとされる。
今の座敷は、1909年の再建時のもの。

由来は、秀吉が残月亭に来たとき突き上げ窓から残り月を見て深く味わい感動したことから。

外観
切妻桟瓦葺き。
南面露地に杮葺の庇が葺かれている。

表千家残月亭1.jpg


十畳敷き、二畳の上段、付け書院の構成。
上段は、上段床、残月床といわれ床として使用。
この柱にもたれて秀吉が月を見たことから太閤柱と称される。

表千家残月亭2.jpg


付け書院の前の化粧屋根裏天井に、例の突き上げ窓がある。

太閤柱を境に天井が違った顔に変化してゆく。
上段の天井高さは、五尺七寸と低く利休の時と同じ。

内法長押は無く床と書院の間に北山丸太を使用している。

また、西日を避ける為に濡れ縁の外に丸太柱を立て上下を吹き抜いて中敷居窓となっている。

広間の書院座敷で客の位も高い人を招く造りの残月亭。
しかし、書院とは違う柔らかで軽やかにまとめ上げた座敷。

所在地:京都市上京区小川寺
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夕佳亭 [茶席]

金閣寺 夕佳亭(きんかくじ せっかてい)

金閣寺の本来の名を鹿苑寺(ろくおんじ)、臨済宗相国寺派の禅寺で、舎利殿(金閣)にちなんで金閣寺と呼ばれている。

室町時代に足利義満が造営した北山殿を、遺命により夢窓国師を開山とする寺に改められたもので、当初の建物は全て焼失。
方丈、書院などは江戸中期のもの、唯一残っていた金閣も昭和25年に焼失し、昭和30年に再建。
 
金閣寺境内の東北の小高い場所に夕佳亭がある。
この建物も焼失し明治初頭に再建された。

夕佳亭は、鹿苑寺第四世鳳林和尚が金森宗和に頼んで造ったものと言われているが定かではない。
また二人の交友記録や宗和の好きな茶室の形でもある。
都林泉名勝図会に描かれている夕佳亭と比較すると否定も出来ない。

外観は、寄棟茅葺屋根であるが、入母屋にも似ている。

金閣寺 夕佳亭1.jpg


正面から右斜め前方に切妻杮葺の上段の間・二畳の鳳棲楼(ほうせいろう)が懸造になっている。

※懸(け)造(り)(かけ‐づくり)
山や崖にもたせかけたり、谷や川の上に突き出したりして建てること。また、その建物。
清水(きよみず)寺の舞台など。崖造(がけづく)り。

入口の土間は、開放的で細長い三段になった沓脱石が据えられている。
榑縁で茶室に上がる。
また、土間左手に(くど)が設けられている。※榑縁(くれえん)
細長い板を敷居と平行に並べて張った縁側。

内部は三畳敷き。
正面の床、床柱は南天の床柱(もとは、タガヤサンだったとも言われる)で有名である。

金閣寺 夕佳亭2.jpg


炉が四畳半切りにされているのは、土間と通しにして使う目論みがうかがえる。

金閣寺 夕佳亭3.jpg


土間との境の絵様窓、その脇の火灯口。
土間天井は、化粧屋根裏。

匠な構成、空間を広く魅せる演出などもある。
しかし、メインは、上段の間から眺望のようである。

※竈(くど)とは、. 竈(かまど)のうち、その後部に位置する煙の排出部を意味する(原義)。
この意味では特に「竈突」、「竈処」と表記されることもある。

所在地:京都市北区金閣寺町



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長生庵 [茶席]

堀内家長生庵(ほりのうちけ ちょうせいあん)

堀内家(ほりのうちけ)は代々表千家の宗匠を務める茶家。
堀内家の庵号は長生庵(ちょうせいあん)といい、利休形二畳台目の茶室を指す。

堀内家の家祖は国学者と伝えられる堀内浄佐(1612~1699)であり、茶の湯を山田宗?に学んだと伝えられる。
初代、堀内仙鶴は浄佐の養子で、はじめ水間沾徳の門で俳諧を学び、のちに江戸を去り表千家6代覚々斎の門下に入った。
俳人としても著名であり、同時代の茶人たちに大きな影響を与えたと伝えられる。

長生庵の外観
妻を南に向けた切妻杮葺。
深く広い?葺の庇と棟の牡丹の花の鬼板が特徴。

内観
二畳台目(台目構え)
茶道口は腹口。

※腹口 点前畳の勝手付きに開ける入り口
躙口の正面に床。
床柱は、赤松皮付き。
相手柱は档丸太。

※档丸太(あてまるた) 柱として使われることもある節付きのヒバ丸太のこと。 錆を発生させて使用したり、節の大きさなどをみて削り方を変えるような作法もある。

框は、北山磨丸太。

天井は、野根板平天井、蒲落ち天井、化粧屋根裏天井。

中柱は赤松皮付き、横竹を入れて下部を開放。
窓は、客付に下地窓(外部に力竹)

※力竹(ちからだけ) 下地窓の外側に、壁の補強と装飾を兼ねて立てられる竹の柱。
躙口の上に連子窓。

この長生庵は、元治の兵火で焼失したため、1869年に再建された。

景色と上手く調和された茶室。

所在地:京都市中京区釜座


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